日本ブライト旅行社長のブログ
 
栃木県佐野市の旅行会社社長のひとり言です。
 


2007年5月7日を表示

ケータイ短歌・・・

ケータイ短歌・・・
ケータイだったら、メールだったら、伝えられる。
手紙とも電話とも違うメールだから、
より伝えられることってありますよね?
夕陽を見たこと、悩んだこと、好きな人のこと、将来のこと。
いろんなキモチが一瞬一瞬生まれては消え、弾けていきます。
それはまるでシャボン玉のように。
そんなキモチや想いを5・7・5・7・7のことばで表現してみませんか?
短歌を作ることは、心の風景を探す旅。
あなただけの心象風景を送ってください。

http://www.nhk.or.jp/tanka/bansho.html
さあ、みんなで短歌コミュニケーション!
ラジオ第1放送です。



5月7日(月)22:24 | トラックバック(0) | コメント(0) | こころに残る言葉 | 管理

05月07日(月)訪問者

福島県磐梯熱海温泉 磐梯向滝 営業 長江典子様

先月は、県南地区会の研修に参加いただきありがとうございました。



5月7日(月)21:34 | トラックバック(0) | コメント(0) | visitor | 管理

栃木県の旅券発行数が3年連続増加

 去年1年間に栃木県で発行されたパスポートの数は5万6000件あまりで、3年続けて前の年を上回り、テロへの懸念などから発行件数が急激に落ち込む前の5年前を上回る水準まで回復しました。

栃木県国際交流課によりますと、平成18年の県内のパスポートの発行件数は、5万6000件あまりで、前の年より4000件あまり、率にして8点3%増えました。これは、全国の都道府県の中では18位にあたり、人口1000人あたりの発行件数はおよそ28件で19位になっています。

パスポートの発行件数は、平成15年にアジア各地で猛威を振るった新型のウイルス性肺炎や、イラク情勢にともなうテロへの懸念が高まったことなどから、昭和61年以来となる3万件台にまで落ち込みましたが、この3年間で平成14年を上回る水準まで回復しました。

栃木県国際交流課は「去年は平成7年に導入された10年パスポートの更新の時期に当たったことも発行数が増加した一因だ。とくに団塊世代を含む50歳代と60歳代の旅券発行が増えており、海外旅行を目的としたパスポートの発行は復調傾向が続きそうだ」と話しています。



5月7日(月)21:30 | トラックバック(0) | コメント(1) | 旅行業界情報 | 管理

ミス肯定が選手伸ばす

 プロレスラーになる直前の1年間、米国で中学校の教師をしていた。

当時まだ22歳。受け持った体育の授業では、騒いでいた男子生徒の尻を棒でたたいたこともある。自分もそうされていたし、疑問を持たなかった。

元プロレスラー スタン・ハンセン氏

しかし、ある日、校長に呼ばれて「気をつけた方がいい。裁判になる」と注意された。
事実、その頃から米国では学校の暴力が多く法廷に持ち込まれるようになった。今は学校での体罰はほとんど聞かなくなった。

 スポーツでも、自分たちはたたかれて育った米国最後の世代だと思う。大学生の頃はアメリカンフットボール部のコーチから体罰を受けた。ミスをした時、抱きかかえられ腹をドスンとやられた。厳しい言葉を浴びせられ、くじけそうにもなった。しかし、僕が大学を卒業して間もなく、他大学の有名監督が選手へ暴力を振るって解任された。以降、指導者の意識は劇的に変わった。

 愛情に基づいた親のしつけはともかく、スポーツを教える時に体罰はいらない。選手にとって、ミスは成功より頭に残っているものだ。そこで指導者が頭ごなしにしかっても進歩がない。選手がミスを肯定的にとらえ、前向きにさせることこそがコーチの仕事だ。失敗した時こそ、選手は伸びる好機なんだ。

 長く日本にいたプロレスラー時代、甲子園大会をテレビでよく見ていた。日本の高校野球は集中力が感じられ、個人的には好きだ。ただ、背景には監督の強いリーダーシップが感じられる。その威厳はどこから来るものなのか。

成功する監督とは、選手全員に「監督のために勝つんだ」と信頼され、奮い立たせる人物と思う。体罰に頼るのでなく、選手の失敗を肯定しながら指導することが、その近道ではないだろうか。

 米国テキサス州出身。高校ではアメリカンフットボール、野球を経験。米ナショナルフットボールリーグ(NFL)選手などを経て、プロレスラーに転身。日本でも多くの人気を集めた。01年に引退後、自宅のあるコロラド州で少年スポーツの指導にあたる。57歳。



スタン・ハンセン(Stan Hansen)
1949年、米国テキサス州生まれ。
195cm、140kg。
ウエスト・テキサス大学を卒業後、プロフットボーラーとして活躍するが、膝の故障で引退。地理の教師としてジュニアハイスクールで教鞭をとるが、その後72年にプロレス界へ転向。75年には「全日本」に初来日。翌年「新日本」のシリーズに参戦する。80年にはアントニオ猪木を破ってNWFを奪取。83年にはジャイアント馬場を破ってPWFの王座に輝く。
その後も4度の3冠ヘビー級王者に輝き最強外国人レスラーの名を不動のものとした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3



5月7日(月)19:22 | トラックバック(0) | コメント(0) | スポーツ | 管理


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