女将が語る塩原の今 3
街を挙げて地道な闘い 「湯守田中屋」では毎月第1金曜日の午後、社長以下総勢約20人を集めた全体会議が開かれる。 「各階の在庫の確認」「仕事は分担して効率的に」などと従業員に指示を出すのは、女将の田中志さんだ。 祖父が創業した旅館で生まれ育った田中さんは、「以前は、きれいな姿でお客さんを出迎えるだけの『お飾り女将』だった」と振り返る。だが2004年に産業再生機構の支援を受けて、雇われ女将に転じ、状況は一変した。 当初は、予約状況や売り上げ実態すら把握しておらず、再生機構の社員に、「女将なのになぜ知らないんだ」としっ責された。 どこから再建に手を着けたら良いか分からない中、ストップウオッチを片手に、各客室の掃除に必要な時間を秒単位で調べて人員配置を考え直し、食器などの備品の在庫量も洗い出し、コスト管理を徹底した。 また、私用で東京に行く際も旅館名入りのはんてんを着て、タクシーの運転手らに旅館のパンフレットを配るなど、知名度を高める努力を続けた。 旅館は今年4月、大和証券SMBCプリンシパル・インベストメンツなどが株主となった。 営業努力と徹底した効率化で、6~9月期の売上高は前年同期を上回った。「まだ気は抜けない」が、「少しずつ地域活動にも参加したい」という。 塩原温泉の数少ない勝ち組、「割烹旅館湯の花荘」の伊東スズエさんは、塩原唯一の経営者兼女将だ。小規模ながら料理にこだわり、露天風呂付き客室も整備するなど、高級化を狙って成功した。 1990年に経営を継いで以来、料理長任せだった仕入れを見直すため、都内の料亭を巡って板前から料理の原価を聞き出したり、温泉の湯量を増やして保温に必要なボイラー代を節約したりと、コスト削減に努め、年間支出を約1000万円も減らした。 成功の鍵は「自分で財務の勉強をしたこと」と伊東さんは振り返る。 温泉街の活性化には、「女将同士がもっと客単価や売り上げなどを情報交換し、互いの旅館を評価し合うべきだ」と熱っぽく話す。 昨年4月に開館した「ホテル明賀屋」の新館「彩つむぎ」は、閉鎖が目立つ温泉街で久々の新規開業だ。 新館の女将、君島理恵さんは、自ら設計したラウンジに大谷石や芦野石を使うなど、地元産品にこだわった。 君島さんは、「都会のまねをしがち」な塩原の傾向に疑問を持っており、「お客さんには、地元の魅力を伝えたい」と話す。すでにリピーター客も確保する順調な滑り出しだ。 温泉街のなかの淘汰(とうた)や新陳代謝は避けられないが、塩原全体が淘汰されないようにするには、「再生組や新規参入組の努力や工夫を、温泉街全体が吸収できるかにかかってる」(旅行業界筋)。 塩原復権に向け、女将たちの地道な闘いは、これからも続く。
1月6日(土)23:46 | トラックバック(0) | コメント(0) | 旅行業界情報 | 管理
女将が語る塩原の今 2
歴史の強み生かし切れず 「多くの文人に愛された塩原の歴史を生かしていない」。 1536年創業と伝わる老舗「和泉屋旅館」女将の田代真知子さんは静かに話す。 和泉屋旅館には、野口雨情や竹久夢二らが宿泊し、「文学亭」と名付けた別館に、当時の写真などを展示している。尾崎紅葉が宿泊した旅館「清琴楼」も、紅葉が滞在した部屋を見学者に開放している。 だが、これらは個々の旅館単独の取り組みで、「文学の温泉地」として塩原を全国にPRする活動は、ほとんどない。 こうした「財産」を生かし切れていない理由を、田代さんは、「何もしなくても団体客が来た」バブル期に、「安穏として、地域ぐるみの誘客活動をしなかった」ツケが回ってきたと分析する。「今後は、もっと文学を前面に出したPRをするべき」というが、青写真は描けてはいない。 こうした現状を象徴するのが、2003年に開館した「塩原もの語り館」だ。 塩原ゆかりの文人たちを紹介する施設だが、特別な企画展が行われたことは一度もない。温泉街のあちこちには、35の文学碑も建立されたが、集客にはつながらず、塩原の強みを生かせていない。 一方、独自の闘いを展開している女将もいる。 温泉街から離れた山中にあり、農業も営む「たちばな家」の女将、君島いつさんは、宿泊客に自分の畑で採れた野菜や手作り豆腐を提供するなど、独自色を打ち出している。 君島さんの家は、特産の高原大根などの生産農家だったが、1987年、自宅を改装して旅館を始めた。当初は好景気で、近くの数軒の農家も旅館を始めたが、バブル崩壊とともに、ライバルは次々と撤退していった。 君島さんは、塩原の女将の中では最高齢の1人だが、名物の手作り料理の味は、今も君島さんが目を光らせ、旅館を手伝う長女夫婦に「お袋の味を伝える」べく全力を尽くしている。 塩原最大規模のホテルの一つ「ホテルニュー塩原」元女将の岡部瑞穂さんは、約35年経営に携わり、女将の会を拡充するなど、発言力も大きかった。 かつてはニュー塩原の売り上げを伸ばすため、館内にバーや土産物店を造るなど、設備投資競争の先頭を切ったが、「これが町中の土産物屋などの廃業を招いた」(関係筋)との批判も根強い。 結局、ホテルは、身の丈を超えた投資が過剰負債を招き、「団体客向けの経営を方向転換出来なかった」こともあり、05年3月には、足利銀行や整理回収機構などから金融支援を受けることが決まって、岡部さんは女将の座を追われた。 その後、昨年4月に市議に初当選し、「空き家対策などに力を入れ、温泉街にかつてのにぎわいを取り戻したい」と話す。経営者時代の反省を基に、塩原全域の活性化を実現できるか、手腕が問われる。
1月6日(土)23:36 | トラックバック(0) | コメント(0) | 旅行業界情報 | 管理
女将が語る塩原の今
那須塩原市の塩原温泉の旅館やホテルは、年末・年始を過ごす温泉客を出迎える準備で大忙しだ。 昨年が開湯1200年の節目だった塩原温泉は、「復権」に向けた努力を重ねてきたが、苦しい状況が続いている。 平成不況をくぐり抜けてきた女将(おかみ)たちの、取り組みと苦悩は、どうだったろうか。 全国への「武器」見いだせず 「松楓楼松屋」は、年末年始に女性の宿泊客を増やそうと、初の女性限定プランを始める。 女将の田代純代さんは今、プレゼントする化粧品などを入れたポーチの準備の真っ最中だ。 開湯1200年の節目だった昨年は、温泉街を挙げて多くの記念事業に取り組んだが、宿泊客数が増えるような効果は出ていない。 ただ、10月9日の開湯1200年祭では、和服姿の女将約20人がずらりと並んで観光客を出迎えた。塩原温泉観光協会の土屋充生専務理事は「あれだけの女将が集まったことは評価できる」と話す。 中小の旅館・ホテルが多い塩原温泉では、重要な「働き手」である女将が、外部で広告塔の役目を果たす余裕は、ほとんどなかった。こうした「伝統」に変化が見え始めたのは3年前、田代さんが、「塩原温泉女将の会」の会長になってからだった。 田代さんはまず、「自ら率先して本音を言える」関係を築こうとした。当初は「若手が何を言うか」などと風当たりも強かった。だが、会の中心層が50~60歳代から30~40歳代に若返り、「女将同士の風通しが良くなり、イベントにも積極的に参加するようになった」(塩原温泉観光協会)。 ただ、若手の台頭に、「助言できる雰囲気じゃない 」と、女将の会を離れたベテランもいた。 地盤沈下が進む塩原の復活には、「上の世代とどう連携するかが重要 」なだけに、先輩女将にも会への参加を粘り強く呼びかけるなど、世代間の「溝」を埋めるのに必死 だ。 女将の会の枠を飛び出す若手も出始めた。 「梅川荘」若女将の若色晶子さんは、塩原温泉旅館協同組合青年部にも参加している。「女将の会だけでは分からないことが多い」からで、「遊歩道の整備など、自然の良さをPRするべきだ 」と青年部の会合で発言するなど、塩原の将来像を模索している。 こうした自由な雰囲気が広がる中で、目玉施設として那須塩原市が造った足湯公園「湯っ歩の里」 についても、「宿泊客の増加にはつながらなかった」 と公言する女将が出始めている。 「光雲荘」女将の君島香さんは2001年、塩原で初めて足湯を造り、足湯につかりながらの温泉卵やせんべい作り体験を企画するなど、プラスαの魅力作り に努めている。 そんな君島さんにとっては、無料の足湯が温泉街にあるのに、「湯っ歩の里は有料で、夜間には利用できず、宿泊者が楽しめない」不完全なハコモノ にしか見えない。 だが、これに代わる塩原の持ち味は、「自然の良さ」 といった漠然としたテーマにとどまる。 旅行会社の社員だった田代さんも、「塩原を改めて全国にPRする“何か”が必要 」と意識してはいる。 だが、全国の温泉地に対抗できる塩原ならではの「武器」 は見いだせていない。
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1月6日(土)23:13 | トラックバック(0) | コメント(0) | 旅行業界情報 | 管理
1月5日(金) 下野新聞社県南版に美術館掲載されました。
ふるさと田沼の四季丹念に描く 児童画家・安藤さん個展 【佐野】児童画家安藤勇寿さんの作品を集めた第3回「ふるさとの詩(うた)展」が,御神楽町の安藤勇寿「少年の日」美術館で開かれている。 今回は十年前にふるさと田沼にこだわり描いた四点を展示。 四季を通じて遊んだ少年時代の記憶と「景色は何も変わっていなかった」(安藤)という大人になってからの取材で得たものを融合させ,色鉛筆で丹念に描いた。作品は,仲間と遊ぶ子供の生き生きとした表情と,四季の風景が郷愁を誘う。 常設展にはない地元を意識した数少ない作品だ。 栃木県宇都宮市から定期的に来るという女性(78才)は,「横浜生まれ,大連(中国)育ちの私の少年時代,田んぼや田舎の川など想像の世界だった。 絵を見ると穏やかな気もちになる。いい絵ですね」とじっと見詰めていた。 4月22日まで 月曜休館(月曜祝日は,翌日休館)。 お問い合わせは. 0283-67-1080へ。
1月6日(土)08:59 | トラックバック(0) | コメント(0) | 美術館・博物館 | 管理
松老被五雲
松老被五雲 不老不死の仙人が住むと言われる山に湧き上がる、五色の雲。それらと老松が対峙する光景は、不老や長寿などの吉祥を表すものである。
立花大亀老師 ■人は一生かかって自分の道を歩まなければならない。 後戻りの出来ない、やり直しの効かない道、それはまた自分の力だけで選ぶことは出来ない。 多くの縁の働きや、大きな時代の流れの中で、どうしても歩まなければならなかった道‥。 時には苛酷で生き難く、満身創痍となっても、誰にも頼れない孤独を生きなければならないこともある。 そして人を恨み、世間への忿懣に心乱れることもある。 「人は転ぶと石のせいにする。石がなければ坂のせいにする。そして、坂がなければ履いている靴のせいにする」。人は、苦しいとつい、自分の人生の責任を他に転嫁してしまう。でもそこに救いはない。 真に自己を救う道は、外ばかり見ていた眼を自己の内側に向け、自分の心の向きを廻らせる宗教的廻心(えしん)の世界しかない。 自分のみが正しく善であると思っていた心が転じられ、愚かな自我に妄執していた自分が照らし出される。 人生での苦労は何一つ無駄はなく、過去の一切が総がかりで私一人を生かしめんと働いてくださっていることが、その時初めて解る。 ■正義感、使命感、危機感、いずれもEnergyになる一方でしんどい生き方でもある。 しかし、「従流志不変(流れに従い志を変えず)」 立花大亀、「咲くも無心 散るも無心 花は嘆かず 今を生きる」坂村真民などの書や詩に触れていると、自然と己の心が定まっていく。 Made in Japan が見直される時代。 言葉も様々‥
1月6日(土)00:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | こころに残る言葉 | 管理