日本ブライト旅行社長のブログ
 
栃木県佐野市の旅行会社社長のひとり言です。
 


2007年7月3日を表示

お助けバス

先日、旅行会社や旅館の皆さんから年式の古いバスの故障が多発している話を伺いました。

 旅行会社さんからの相談の話ですが、先月、旅行中にバスが故障したそうで、次の目的地までタクシーにて移動。

バス会社から契約した料金を請求され、タクシー代は払わないと言うことで、お帰りになってからもトラブル処理に時間を費やされていると相談を受けました。

・バス会社は、安くやって修理代まで掛かったのだからタクシー代は払えない。そして、予定より10分遅れで修理が出来たのでタクシーを勝手に呼ばなければ帰れたとも言っています。

・旅行会社は、バス会社がどんな料金でも言いから使って欲しいと言われたので使ったのだからバス会社が負担をして欲しいと言います。いつ直るかわからなかったので当然のことをした。

※契約は信頼関係です。また、添乗員の判断でサービスエリアまでタクシーを呼んで移動をしたそうですが、乗務員との確認は曖昧である。
このケースは、旅行会社の判断が悪いと思う。

本来なら、故障の状況を乗務員に確認をしてから、お客様に状況を説明しお客様に、お時間をいただき対処すれば良いところだが無駄な出費になったようだ。

知合いのバス会社様から
長野市郊外の車庫に24時間待機するバス会社「お助けバス」があると伺いました。

株式会社アリーナ
http://www.arenabus.com/index.html
〒388-8004 長野県長野市篠ノ井会858-1
TEL : 026-299-6200
緊急携帯: 090-5792-0120
(営業責任者:吉田様)
※このブログを見たとお話をしてください。

24時間稼動するとのこと。
但し、修理でなく乗客を輸送する事を目的としているので代金は、掛かりますよ。(きっと)

※当初の目的は、冬場のスキーバスでのトラブルを対応する目的とした活動でしたが、2月の大阪スキーツアーの事故。燃料高騰・運賃の低価格などを協同事業として、燃料の共同購入。ピーク時集の助けあい運行などを目的として、8月を目途に事業を立ち上げるそうです。
※トラブルの際は、同業者料金として対応をしていただけるそうです。全国展開になると良いですね。
バス会社様、一度お問合せをしてください。

今日の教訓「安物買いの銭失い」

・お客様にどのようにバスをご提案したら良いか?
 真剣に考えてください。



7月3日(火)16:17 | トラックバック(1) | コメント(2) | 社長日記 | 管理

<速報>:イギリス、テロ危険度を最高度の「危機」に引き上げ

イギリス・ロンドンでのテロ未遂事件、スコットランドのグラスゴー空港の施設での車両の炎上事件を受け、イギリス内務省は最高度の「危機(critical)」に引き上げた。イギリス政府はグラスゴーでの事件前まで、テロ危険度を「深刻(severe)」と上から2番目で設定していました。

 在英国日本大使館によると、英国政府「空港や混雑した場所における保安レベルを上げる」としたことを受け、同大使館でも「とりわけ空港や大勢の人が集まる場所では警戒する、周囲の状況に特段の注意を払う」よう注意を促しており、外務省も7月1日付けでスポット情報を発出し、注意を呼びかけています。

英国政府観光庁 http://www.visitbritain.com/VB3-ja-JP/destinationguides/index.aspx?source=ppc

 なお、グラスゴー空港は一時閉鎖したが、現在は39ある全てのチェックインカウンターで受付を行うなど営業を再開している。なお、グラスゴー空港サイトの情報によれば離着陸便ともに運航を回復しているが、一部の便では遅れも発生しているといいます。

今から10年ほど前の1997年6月15日~18日に、開催された国際ロータリークラブのグラスゴー(スコットランド、U.K.) 大会に添乗員としてグラスゴーへ訪問しました。世界から24,300名参加された大会です。

日本を代表するサッカー選手の移籍によって、今は、この都市も日本により馴染み易くなっているかもしれない。
18世紀にタバコ貿易に始まり、さらに様々な産業(銀行、織物、炭鉱業そして鉄鋼業等)で富をなし、それと並行するように文化的に発展してきたグラスゴーは、スコットランドの最も魅力ある都市の一つである。

テロは、許されない。

奇しくも1997年のロータリー国際大会にてジアイRI会長とマイヨール前ユネスコ事務局長との間で平和の文化、識字教育、環境教育等に対して協力の申し合わせをした場所、グラスゴーで起きたのである。

これがテロのメッセージなのでしょうか?



7月3日(火)08:33 | トラックバック(0) | コメント(0) | 旅行業界情報 | 管理

フライトアテンダント・フィギュア キャセイ・パシフィック航空

【ユニフォーム:1974-1983年】
世界的に有名なファッションデザイナー、ピエール・バルマンのデザインによるユニフォーム。
波のパターンをデザインしたサイケ調のブラウスは、ひと目でキャセイのユニフォームとわかるものでした。最初のロッキードl1011トライスターを導入し、キャセイパシフィック航空がワイドボディ・ジェット時代に入っていく頃です。



【ユニフォーム:1983-1990年】
エルメスがデザインのエレガントなユニフォーム。
このユニフォームから帽子がなくなりました。
このユニフォーム以来、シニアスタッフは紺、ジュニアスタッフは赤い制服など、違う色使いをするようになりました。
路線拡大とともに、大型長距離路線用機材が必要になり、”ジャンボ”でおなじみのボーイングB747型機が導入されるようになりました。



【ユニフォーム:1990-1999年】
ニナ・リッチのデザインによるユニフォーム。
長めの丈のジャケットに、シンプルなストレートのスカートを合わせたタイプ。
中に着るブラウスは白えりにリボン、開襟など、いくつかの種類がありました。



【ユニフォーム:1999-現在】
香港の有名デザイナー、エディー・ラウ氏によるデザイン。
よりスリムになったシルエットはモダン・アジアを感じさせるスタイルです。
2004年に1度デザインをリフレッシュさせています。

キャセイパシフィック航空で空の旅の予定はすぐにはないけれど、フライトアテンダントのフィギュアはぜひ、という方には、キャセイパシフィック航空のオンラインショップをご利用いただけます。

オンラインショップでは、ご紹介しているフライトアテンダントのフィギュアのほか、60周年を記念して作られたレトロ・バッグやTシャツの復刻版、そしてかわいいテディーベアなど、限定品が満載です。



現在キャセイ・パシフィック航空でシニア・パーサーを務める鈴木琴美さん。
スチュワーデスとしての研修を受けるために、香港の地を初めて踏んだのは88年6月のこと。
「すごい所に来てしまった…というのが香港の第一印象でしたね」と語るのは、彼女が「研修のための寮として住んでいたのが旺角にあるYMCA。当時はまだ改装前で、部屋の内装はボロボロ。とにかくこの部屋に居たくなかったから、クラスが終わると毎日外に遊びに出ていましたね。でも旺角は特に下町情緒がある場所でしょ。外に出たら出たで、ものすごいカルチャーショックを受けました」

例えば下着姿で街を歩いているおじさん、真夜中に遊びまわっている子供達、さらに水道の水がそのまま飲めない、信号を無視するなど、日本での常識がここではまったく通用しなかったことにかなりびっくりしたようだ。

 キャセイ航空に入社した頃は、まさか97年の返還を見届けることはないだろうと思っていた鈴木さん。

気が付けば空港もカイタックからチェクラプコックに移り、制服もエルメス、ニナリッチそして今の制服と、3回変わった。

これからも続けられる限りこの仕事を続け、変り行く香港を見続けていきたいそうだ。



7月3日(火)07:31 | トラックバック(0) | コメント(0) | 旅行業界情報 | 管理

キャセイパシフィック航空 フライトアテンダント・フィギュア

キャセイパシフィック航空では現在、創立60周年を記念して作られたフライトアテンダントの歴代のユニフォームを着たフィギュアを機内免税品販売・事前注文にてお求めいただけます。

キャセイパシフィック航空創立の年である1946年から現在までのユニフォーム9種類を着たフィギュアは、それぞれの時代のファッションを反映しながらも、すべてにキャセイらしさが感じられます。体長は約30cm、価格は110香港ドル(約1,800円)です。

キャセイパシフィック航空での旅の記念に、ぜひお求めください。

【ユニフォーム:1946-1950年】
キャセイパシフィック航空の初代のユニフォームネイビーのスーツと帽子はミリタリー調です。真っ白いシャツとネイビーのスーツは、戦後によく見るスタイルでした。”ベッツィー”の愛称で親しまれたダグラスDC3型期を運航していた頃のデザインです。



【ユニフォーム:1950-1954年】
時代を反映したコンサバな雰囲気のワンピース型のユニフォーム。スカートのすそ丈はくるぶしから約13cm(5インチ)と長めでした。ストッキングには黒のシームラインが入るなど、おしゃれな要素もしっかり押えています。



【ユニフォーム:1954-1962年】
スマートなイメージのダーク・ブルーのスーツは、空の旅の定期便の便利さやそれに対する信頼性が世の中に広がっていった時代の空気を反映しています。DC-4やDC-6、エレクトラといった4発プロペラ機が活躍し、キャセイパシフィック航空が東京や大阪に就航した時代です。



【ユニフォーム:1962-1969年】
キャセイパシフィック航空がプロペラ機からジェット機の時代に入った頃。チャイナドレス風の白いブラウスと赤いスカートにジャケット。キャセイで初めての赤いユニフォームです。



【ユニフォーム:1969-1974年】
なんといってもミニスカートが大流行したこの頃、キャセイパシフィック航空のユニフォームも真っ赤なミニのワンピースにジャケットでした。お客様にもフライトアテンダントにも人気のユニフォームでした。



7月3日(火)07:17 | トラックバック(0) | コメント(0) | 旅行業界情報 | 管理

真顔の説得が覚悟の決め手

社会起業家・深田智之さんが、東山温泉観光協会長に就任することが決まりました。

今から1300年前に行基が発見したとされ、かつて画家の竹久夢二や詩人の与謝野晶子も愛した東山温泉。

旅館数は最盛期には33を数えましたが、バブル崩壊の影響で買収や合併が相次ぎ、07年4月現在で22軒に。温泉への入り込み客は92年の約81万人から、06年は約42万人に半減してしまいます。
こうした窮状の中、グリーンピア土佐横浪の再生を手がけた深田さんのもとに、破綻寸前の旅館三館の経営再建の要請が舞い込みます。
2005年秋より、深田さんは株式会社「くつろぎ宿」の社長として「千代滝」「新滝」「不動滝」の3旅館の再建に着手。

徹底的なコスト削減を図るとともに、3館の特色を色分け。
また、宿泊客が湯巡りを楽しめるように、新滝と不動滝を渡り廊下で結んで、温泉地としての魅力アップを図るなど次々と手を打ち、わずか1年半で見事、黒字を達成されました。

以下、2007年6月27日(水)の『福島民報』第2面に掲載された記事です!
『 ひ と ~東山温泉観光協会長に選ばれた深田智之さん 』
いわば“よそ者”の立場から異例の抜てきで会津を代表する温泉地、東山温泉の再生を任された。「失敗も批判もあるだろうが受けて立つ覚悟はある。大きなものを目指す」と吹っ切れた顔で言う。

二ヵ所の銀行系研究所で不動産の有効活用、街の再開発などに携わり、調査を担当したグリーンピア土佐横浪の再生に、独立して起業した会社の社長として格闘。わずか二年で奇跡ともいわれる黒字化を達成したものの国の方針で閉鎖に追い込まれた。

東京に戻り、コンサルタントや講演の日々だったところに、東山温泉の「千代滝」「不動滝」「新滝」の三滝の調査を依頼され、株式会社「くつろぎ宿」を立ち上げて、経営まで任された。

平成十七年十一月の開業から見てきた東山温泉を「歴史、文化、ポテンシャルは十分。湯質もいい。東日本ではもう珍しい芸妓(げいぎ)さんも多い。恵まれ過ぎるぐらい恵まれている」という。「ただ、長期的な展望に立ったまちづくりは課題」と指摘する。

研究所では街づくりが専門だった。
「景観の問題には力が発揮できると思う。東山で働けることを誇りに思えるようにしたい」と意気込む。

家族の元に帰るのもままならないまま突っ走る日々に、さらに大役が加わった。
くつろぎ宿の立ち上げで世話になった金融機関の人の「おしり(任期)は決まっていない。地域のためにやってほしい」という真顔の説得が覚悟の決め手だった。



7月3日(火)06:55 | トラックバック(1) | コメント(0) | 旅行業界情報 | 管理


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