日本ブライト旅行社長のブログ
 
栃木県佐野市の旅行会社社長のひとり言です。
 


2009年2月14日を表示

adidas Jersey

家族で佐野プレミアム・アウトレットへ。

本日は、土曜日で混んでいました。
※まとめ買いキャンペーンを実施していました。

来月は、Hunting worldが、3/4(水)~3/29(日)の期間、プレミアム・オープンをするそうです。

今回は、「勝利」からインスパイアードされた、ゴールド&シルバーをデザインした3ストライプが特徴のジャージを妻にプレゼントして頂きました。

人気のアディダスジャージ、アディブイのデザインをそのままウィンドジャケットは、防風・防水性・透湿性に優れ、悪天候下でも最適な体温の維持をサポートする素材です。

裏地は起毛トリコットで暖かく最適!



本日、バレンタインです。
実は、2日前にチョコは頂きました。

フロントスタイルバックスタイル襟部分拡大、ネック部分が通気性のある仕様になっています左胸部分ロゴ刺繍拡大ゴールド&シルバーをデザインした3ストライプ脇部分拡大、通気性のある仕様になっています。

おすすめのトレーニングウェア。
勝利からインスパイアードされた、ゴールド&シルバーをデザインした3ストライプが特徴です。



クライマライト(CLIMALITE):肌に接するウェアに吸汗性、透湿性、速乾性を備えた軽量の生地素材を使用して、汗を素早く吸収して外気に放散し、身体をいつもドライで快適な状態を保つジャージーです。 

メーカー:アディダス (adidas)
上 価格:7,245円(メーカー希望)
下 価格:6,195円(メーカー希望)



佐野・プレミアム・アウトレット
〒327-0822 栃木県佐野市越名町2058番地
TEL0283-20-5800
営業時間:10時から20時※8月は21時まで
休業日:2月第3木曜日の年1回

「プレミアム・アウトレット」とは、アメリカで完成された本格的アウトレット専業のショッピングセンターです。
全店舗、世界各国の著名ブランドが直接出店する、アメリカ生まれの全く新しいスタイルであり、非日常的な空間で一日中ショッピングを楽しめるのが特徴です。


団体バス(マイクロバス以上)でご来場のお客様は、必ず事前に駐車場のご予約が必要です。
こちらの申込書に必要事項をご記入のうえ、ご来場の前日15時までに0283-20-5815までFAXをお願いいたします。

※各プレミアム・アウトレットより、予約確認印を押したものをご返信してご予約成立となります。
※団体駐車場が満車の場合は、ご予約をお受けできない場合がございます。
事前に駐車場をご予約いただいたお客様には、各ショップの割引やギフトがもらえる特典満載の「クーポンシート」及び「場内地図」を事前発送いたします。

※ご来場日5日以内のご予約に関しましては、当日のお渡しとなる場合がございます。



2月14日(土)19:48 | トラックバック(0) | コメント(4) | ファション | 管理

02月14日(土)訪問者

・栃木県佐野市吉水駅前 N様
 息子に手作りチョコレートをお届け頂きました。
 毎年、親子でつくってお届頂きます。
 ありがとうございました。

 ご近所の方に恵まれて感謝いたします。

・栃木県足利市サンヨートラベル 岡部社長
 久し振りにご来店。

中島みゆきさんの「時代」という歌がが、聞こえてきました。           

今はこんなに 悲しくて
涙も 枯れ果てて
もう 二度と 笑顔には
なれそうも ないけど

そんな時代も あったねと
いつか話せる 日が来るわ
あんな時代も あったねと
きっと笑って 話せるわ
だから今日は くよくよしないで
今日の風に 吹かれましょう

まわるまわるよ 時代は回る
喜び悲しみ くり返し
今日は別れた 恋人たちも
生まれ変わって めぐり逢うよ

旅を続ける 人々は
いつか故郷に 出逢う日を
たとえ今夜は 倒れても
きっと信じて ドアを出る
たとえ今日は 果てしもなく
冷たい雨が 降っていても

めぐるめぐるよ 時代は巡る
別れと出逢いを くり返し
今日は倒れた 旅人たちも
生まれ変わって 歩きだすよ

まわるまわるよ 時代は回る
別れと出逢いを くり返し
今日は倒れた 旅人たちも
生まれ変わって 歩きだすよ

まわるまわるよ 時代は回る
別れと出逢いを くり返し
今日は倒れた 旅人たちも
生まれ変わって 歩きだすよ

今日は倒れた 旅人たちも
生まれ変わって 歩きだすよ

輪廻転生とでも言うのでしょうか

水戸黄門ドラマの主題歌『ああ人生に涙あり』・・・
人生楽ありゃ 苦もあるさ
涙のあとには 虹も出る
歩いてゆくんだ しっかりと
自分の道を ふみしめて

人生勇気が 必要だ
くじけりゃ誰かが 先に行く
あとから来たのに 追い越され
泣くのがいやなら さあ歩け

人生涙と 笑顔あり
そんなに悪くは ないもんだ
なんにもしないで 生きるより
何かを求めて 生きようよ

世の中、自分の思うようにならないのが良いことですね。
感謝、謙虚な人生を歩みたいと思います。



2月14日(土)19:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | visitor | 管理

地域ぐるみで子育て支援  小P

佐野市小中学校PTA連絡協議会「教育フォーラム」

日時:平成21年02月14日(土)
AM9:50:開 会
10:05:研究発表
10:30:講演会
12:10:閉 会

会場:葛生あくとプラザ大ホール
主催:佐野市小中学校PTA連絡協議会
   栃木県PTA連絡協議会
後援:佐野市教育委員会
吉水小は、20名参加(妻)

講師:浜尾朱美(はまお・あけみ)氏
テレビ・ラジオ等でアナウンサーとして活躍。なかでも、1989年から8年間、TBSテレビ「ニュース23」に出演し、絶大な信頼を得る。
子育ての経験を通して、社会全体で子育てを支えることの重要性を実感。
制度やしくみから今の世の中を考えていこうと、子育て支援のネットワークづくりに力を注ぐ。

徳島県生まれ。早稲田大学第1文学部卒業。
就職試験で訪れた東京放送で、試験官だったドラマのプロデューサーに見出され、ポーラテレビ小説「おゆう」で主演デビュー。
その後、本来の関心領域である情報番組に活動の場を移し「おはようCNN」「サンデーモーニング」「アクロスザビュー」などのキャスター・ナビゲーターを経て、「筑紫哲也ニュース23」のサブキャスターを8年間務める。

現在は、小学生の息子との時間を生活の中心に据えながら、テレビ、雑誌、webマガジンの連載、フォーラム・シンポジウムのコーディネート、カルチャーセンターの日本語教師、地域活動等で多忙な毎日を送る。
2007年より、文部科学省の「子どもの読書サポーターズ会議」で委員を務め、また「ちひろ美術館・東京」等での朗読ボランティア、子育て支援のネットワーク活動「4つ葉プロジェクト」メンバーとして精力的に活動中。
『もう結婚占いはいらない』『私の競馬』他多数

ライフワークとして子育て支援問題に取り組み、「社会全体で子どもの育ちを支え、子育て家庭を応援していこう、みんなで子育てする社会をめざそう」を合言葉に活動を展開。子育てを通して得た教訓・エピソードを交えてわかりやすい講演を行い、体験に基づいた親しみやすい内容は好評。

「こども」から「おとな」へ
~家庭教育・子育て・生きる力~
家庭教育が注目を浴びています。
学校・教育現場と三位一体となり「こども」から「おとな」への過渡期の子どもに生きる力を身に付けてもらう必要があります。
思春期の子どもたちは、毎日がハラハラ、ドキドキの生活です。
児童期とは異なり、身体的、心理的にその安定性が崩れる年頃でもあり、社会的な役割をもった一人の人間として、いかに「個」の確立を成しとげたらいいのかと悩みだします。
その意味で不安定なこの時期は、本当の「おとな」になるために必要不可欠な「通過点」といえるかもしれません。
家庭でしっかりと教育する事が求められます。
ですから、親であり教師である私たちは、子どもの不安と混乱に対して、積極的に受けとめ、向き合っていく姿勢が大切だと思います。
大人と子どもが向き合うことが家庭教育の根幹です。
子どもたちの自我の成長を助けてあげます。
その意味で「指導」ではなく「援助」なのです。
ハラハラ・ドキドキしながら「希望の助走」を試みる子どもたちの、良き伴走者となる為の家庭教育なのです。



2月14日(土)12:49 | トラックバック(0) | コメント(0) | 小学校PTA顧問 | 管理

ハワイ州誕生までの長い道のり

ハワイが正式にアメリカ合衆国の第50番目の州となったのは、1959年8月21日。

アメリカ併合から約61年後のことだった。
州の誕生までの道のりは平坦なものではなかった。
1930年代後半に州への昇格運動が本格化し、1940年には住民の意向を問う投票が行なわれ、投票者の2人に1人は賛成であることが明らかになった。
しかし当時の米国議会では、ハワイが米国本土から離れていることや、人口の多数を占めているのがハワイ人や日系人であることなどを理由に反対する議員が多く、議題として積極的に取り上げられる情況には至らなかった。

第二次世界大戦が終わるとともに、中断していた立州運動は再び活発化。
昇格案は1947年、1950年、1953年と議会に提出されたが、いずれも否決された。
反対の理由は以前と変わらず、「本土から離れている」、「政治勢力のバランスがくずれる」などというもので、根底には「ハワイでは白人が少数派」という人種的な問題があったと考えられる。
しかし、こうした反対理由を跳ね返す原動力となったのは、第二次大戦における、戦場でのハワイ出身者の活躍で、強硬に反対していた南部の議員たちも認めないわけにはいかなかった。

1958年、アラスカが49番目の州に昇格すると、「本土から離れている」という反対理由は説得力を失い、ついに1959年8月21日、ハワイの州への昇格が公式発表されたのだ。



2月14日(土)08:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | 旅行業界情報 | 管理

ハワイ州の誕生とジェット機時代

1959年3月12日、ホノルルの有力紙『ホノルル・スター・ブルテン』の第一面には、巨大な活字を使った「STATEHOOD!」(立州!)という言葉が躍り、50の星が散りばめられた星条旗が描かれた。

米国議会下院がハワイの「州」への昇格案を承認決議したのだ。
そして同年8月21日、ハワイは正式にアメリカ合衆国の第50番目の州となった。
ハワイ各地の教会の鐘が一斉に打ち鳴らされ、人々は家や職場を飛び出して街の公園や役所の前などに集まり、立州を喜びあったという。

州の誕生が人々の関心を寄せ、新たな「ハワイ観光」を促した。



ハワイアメリカに併合した1898年以降、州昇格への思いが強まり、1930年代後半には昇格運動が本格化した。1941年からの第二次世界大戦により、運動は中断を余儀なくされてしまうが、この大戦がハワイ観光に劇的な変化をもたらした。当時、年間3万人に伸びていた観光客の渡航は禁じられ、米国各地から数多くの兵士が駐留するようになり、やがて故郷に帰った兵士たちが語った「土産話」が、多くの一般のアメリカ人にハワイへの憧れをかき立てたことは想像に難くない。

開戦前はまだまだ「極めて贅沢な旅」で、観光客の主流は欧米の富裕層に限られていたが、大戦終結ととともにハワイは高級リゾートのみならず、大衆リゾートとしての扉を開くことになる。



メディアの発達も、観光地としての急成長と大衆化の追い風となった。
アメリカのラジオ番組『ハワイ・コール』は前回のハワイ特集で触れたが、日本では1948年、マドロス姿の岡晴夫が歌った『憧れのハワイ航路』が大ヒット。
まだ海外渡航も自由にはできない時代だったが、「希望果てない遙かな潮路」の彼方にあるハワイへの憧れは大きく広がっていたようだ。
この歌をもとに1950年に制作された同名の映画も、岡晴夫と美空ひばりの共演で多くの観客を喜ばせた。
もちろん、団塊世代のシニア層にとっても、幼少時代の郷愁を誘う思い出のひとつのであるだろう。

また、ハワイ立州と同じ1959年にはじまったアメリカの『ハワイアン・アイ』、1961年公開の映画『ブルーハワイ』は、アメリカはもちろん、日本を含めた世界各地に「夢の島ハワイ」のイメージを強く印象づけた。
人気絶頂だった主演のエルビス・プレスリーが、ハワイの観光会社の社員として映画に登場するのも象徴的だ。
プレスリー扮するチャド・ゲイツが観光客をカウアイ島へ案内するシーンもあり、オアフ島以外の観光化も進んでいたことがうかがえる。
映画では、オアフ島のハナウマ湾やカウアイ島のハナレイ湾など全編のほとんどがロケで撮影されたので、ハワイの自然の美しさ、ビーチの楽しさなどが“リアルに”人々に伝わっていった。
そして1968年にはホノルルのダウンタウンを舞台にした人気刑事ドラマ『Hawai’i Five-O』(ハワイ・ファイブ・オー)がスタート。
12年も続いたこのドラマはダイヤモンド・ヘッドやノースショア、マカプウ・ビーチやイオラニ宮殿などとともにしばしば観光客が登場し、ハワイ観光の成長が反映されていた。



ハワイ渡航に関わるインフラも整備された。
1947年にはユナイテッド航空(UA)が陸上機で初の定期便として米本土と結ぶハワイ線を就航し、ハワイ州誕生の年である1959年からはホノルル国際空港の新ターミナル建設が開始。
来るべきジェット機時代に対応するために造られたアメリカで初の空港で、いよいよジェット時代が幕を開ける。
一機で100以上の乗客を運び、航空料金も「一般人の手の届くレベル」に近づいて、同年の観光客数は25万人に膨張した。

1960年代から70年代初頭にかけてはアメリカの好景気も波及し、ハワイの人口増加にあわせ住宅建築、そして観光客を受け入れるホテルの建設が急ピッチで増加。
1964年にオープンしたザ・イリカイ・ホテルに代表されるような、客室数1000室を超える高層大型ホテルも次々と誕生した。
その一方、1泊8米ドル50セント程度から宿泊できる手軽なホテルも建ち、1週間程度の旅程の団体ツアーなら「ロサンゼルスからの往復航空券と宿泊込みで100米ドル以下」も登場。
一般大衆にもハワイは「実現可能な夢」になったのだ。
もちろん、長期滞在の贅沢な避寒客も多く、1960年に当時皇太子だった明仁殿下と美智子妃殿下が訪問されたのをはじめ、世界各国の首相や有名人たちも続々と訪れている。

そして1967年、ついに年間の観光客数が100万人の大台を超えた。



1960年代はハワイが「富裕層だけのリゾート」から、「すべてのアメリカ人の夢」へと変化した時代だ。
まず注目されたのは海とビーチ。
ハワイ初のオリンピック金メダリストであるデューク・カナハモクの活躍で人気となったサーフィン、大型の魚をねらうフィッシング、浜辺でのフラの実演など、海の魅力を体感するアクティビティはこの時代の人々の大きな憧れだった。
観光はワイキキ周辺が中心だったが、パールハーバーやパンチボウル国立戦没者墓地を旅程に入れる人も多かった。
軍役の体験者にとってハワイは特別の思いのある場所でもあったからだ。

もう一つ、大きな魅力となったのは火山やゴルフ。
1916年にアメリカ政府はビッグ・アイランド(ハワイ島)のマウナ・ロア火山、キラウエア火山、マウイ島のハレアカラ火山をまとめて国立公園に指定していたが、1961年にはハレアカラ火山を独立させて、ハレアカラ国立公園とし、園内整備や自然保護に力を入れるようになった。
また、ゴルフ場では60年代半ばから一般向けのゴルフ場の開発が本格化。
ハワイのベスト・ゴルフ場として取り上げられるカウアイ島のワイルア・ゴルフコースも1961年に9ホールを増築。
贅沢な遊びだったゴルフが一般の人々に普及しはじめたことにも、ハワイは大きな役割を担ったようだ。

また、「ショッピング天国」も忘れてはならない。パイナップルや蘭、コーヒー、アロハシャツなどばかりでなく、ファッションやインテリア小物、宝石など、ゆったりとした気分で買物ができるのもハワイ旅行の魅力になった。
その口火となったのは1959年にオープンしたアラモアナ・センター。
やがて世界一の売り場面積を誇る、巨大なショッピングモールに成長していく。

1962年にはハワイ州の経済開発企画担当庁などが主体となり、「ハワイ・ビジターズ・プログラム」が発足。
ハワイの主要な島々に観光客を誘致する動きが強まり、カラー写真をふんだんに使ったパンフレットやマーケティング活動などが、各島の飛行場の整備と並行する形で進められた。
1968年にはヒルトン・ハワイアン・ビレッジ、1969年には31階建て、客室数1852の超大型ホテル、シェラトン・ワイキキがオープンし、ハワイはいよいよ「ブーム」の時代を迎える。



2月14日(土)08:05 | トラックバック(0) | コメント(0) | 旅行業界情報 | 管理

欧米人のハワイへの憧れ

タヒチから人々がやってきた12世紀初頭以降、長い間、外部との交流がなかったハワイの人々は1778年、英国人の探検家ジェームス・クック船長によって「再発見」され、西洋社会にその存在を知られるようになった。

欧米人との新たな出会いは、群雄割拠していたハワイの社会組織に大きな変化を及ぼし、カメハメハ大王の強大なハワイ王朝の誕生をうながした。
世界の人々がハワイの存在を知るようになり、やがて夢と好奇心いっぱいの「観光客」を乗せた船が到着するようになる。
ハワイは、新たな旅人を迎えていく。



旅人のなかには世界的な文豪や名優も多く、人々の憧れをかき立て、楽園のイメージ確立に一役を担った。
彼らの名言や描写、さらにその背景となる時代の変遷を垣間見ることで、ハワイの魅力が再認識できるとともに新鮮なインスピレーションが得られるだろう。
そんな影響力のあったひとりが、「トム・ソーヤーの冒険」などで有名なマーク・トゥエイン。
作家として認められはじめたばかりの1866年に4ヶ月ほどハワイ各地を旅行し、カリフォルニア州の新聞『サクラメント・ユニオン』に、25本もの記事を送り出した。

トゥエインは、朝霧に包まれて海の上に浮かび上がるダイヤモンド・ヘッドの美しさを「長い航海の果てに、ハワイが私を歓迎してくれるかのようだった」と記し、「知れば知るほどハワイが好きになる」と、急速にハワイに魅せられていった。
馬に乗ってキラウエア火山へ登った際には、夜空を染める溶岩の明かりを「何世紀もの間、砂漠をさまよっていたイスラエルの民を導いた『円柱の炎』とはこんなものではなかったか」と表現し、その神々しさに深い感動を覚えたという。
また、1790年にカメハメハ王と宿敵のマウイ王カラニクペレとの決戦の舞台となったマウイ島のイアオ渓谷については、「太平洋のヨセミテ」と絶賛。
このほか、コナ・コーヒーのおいしさなど、後のハワイ観光の人気ポイントを押さえ、アメリカ人の関心を大いにかき立てた。

トゥエイン以上に、「ハワイ観光」のきっかけを作ったのは、英国人イザベラ・バードが1875年に出版した『ハワイ紀行』だ。
日本や中国、チベット、李氏朝鮮などを旅して、明快な語り口で「異国」を生き生きと描写し、欧米中に名声をとどろかせていた女性旅行家だ。
1872年にハワイへ渡り、6ヶ月間、滞在して、モロカイ島やカウアイ島まで訪れている。
ビッグ・アイランド(ハワイ島)ではヒロでの生活の楽しさを語り、カメハメハ大王が少年時代に隠れ住んだといわれる聖地、ワイピオ渓谷の神秘さなども詳述。
「ハワイで過ごした半年はとても幸せなものだった」と述べたバードは、「楽園」としてのハワイのイメージを広く世界に知らしめたといって良いだろう。
珊瑚礁の青い海、ココナツの木、マンゴーの林、ハイビスカスの花といったハワイの「憧れのキーワード」も、バードの旅行記によって欧米社会に広がっていったのだ。



カメハメハ大王によってはじまったハワイ王朝王国は、1893年に起きた革命によって転覆、サンフォード・ドールを大統領とする「ハワイ共和国」となった。
その後、1898年にはアメリカのウィリアム・マッキンリー大統領がハワイの米国併合を宣言。皮肉なことに、このハワイ王国の消滅が、アメリカ本土に一種の「ハワイブーム」を巻き起こす。

 ハワイ共和国時代には、ワイキキの海岸周辺のタロイモ畑や養魚場に対して、「土地の改良ができないのなら、使用権を放棄しなければならない」とする法律が作られ、周辺の土地は白人の有産階級の手に移っていった。
これが、観光ビーチとしての開発がはじまったきっかけだ。このうち、酒類の販売で資産を築いた英国人のウォルター・ピーコックは、「高級リゾート地としてのハワイ」の将来を見通し、ワイキキの海辺にあった自分の別荘を改造して1901年、エレガントな5階建てのコロニアル様式のホテル、「モアナ・ホテル」(現モアナ・サーフライダー・ウェスティン・リゾート&スパ)を建設。
客室は75あり、自家発電装置を備え、エレベーターもついていた。
当時の最新技術が生かされたホテルだった。
屋上庭園からは360度さえぎるもののないオアフ島の南海岸の風景を満喫できた。

 そして1903年に「ハワイ宣伝委員会」(後の観光局)が設立され、アメリカ本土からリゾート客を招き寄せるマーケティング・プロジェクトが始動。
その中心となったのは米国のオーシャニック汽船(OSC)だ。
OSCは1880年代からカリフォルニアとハワイの間を結ぶ客船航路の宣伝を開始し、1901年には3000人、1918年には8000人の観光客が訪れるようになった。
ハワイの人々にとって、汽船の到着は観光客ばかりでなく、本土からの便りや珍しい物を運んでくる「特別なもの」だった。
ダイヤモンド・ヘッドの展望台から「汽船が近づいて来る!」という知らせが届くと、港ではバンドの演奏や色とりどりのレイを手にした人々が待ち受けていたという。



ハワイ航路の黄金時代は、1925年にマティソン汽船が豪華客船マロロ号を就航させたことに始まる。
1927年には、「ピンクパレス」という愛称で知られるホテル、ロイヤル・ハワイアンがオープンし、マロロ号で到着する贅沢な旅人を迎えることになった。
1930年代の初頭までに、マティソン汽船はOSCやロサンゼルス汽船を併合し、ハワイ航路をほぼ独占するようになる。
当時、ロサンゼルスからハワイまでは約5日間の航海で約125ドルという高額な船賃は、ハワイ旅行を「ヨーロッパやアメリカの富豪たちの楽しみ」にほぼ限定することになった。
このハワイ航路の黄金時代は、映画産業が繁栄したカリフォルニアの黄金時代とも並行し、クラーク・ゲーブルやシャーリー・テンプルといったスターたちのハワイ旅行が、一般のアメリカ人の「ハワイへの憧れ」をさらに膨らませていった。

1929年の大恐慌でハワイへの観光客は一時激減するが、マティソン汽船の親会社であるキャッスル&クック社は米国本土を中心に大規模な宣伝活動をはじめる。
その一つとして、1935年から始められたラジオ番組『ハワイコール』は、モアナ・ホテルの中庭から世界750以上のラジオ局を通じて放送され、以後40年も続く超人気番組となった。
ラジオを通して聞こえるハワイの波の音とハワイ音楽が、ハワイの観光産業の発展に大きく貢献したことはいうまでもないだろう。
同じ1935年にはパン・アメリカン航空が初の太平洋横断路線を就航させ、サンフランシスコ/ホノルル/マニラ/香港を結ぶ定期便が運航。
汽船で5日間かかった太平洋の「彼方の島」への旅は21時間半に短縮された。
そして、ハワイ観光は急成長の時代へ向かう。

~ハワイ・スペシャリスト~



2月14日(土)08:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | 旅行業界情報 | 管理

ハワイ諸島は「兄弟」島

太平洋の真ん中に、およそ2560キロメートルに渡り広がるハワイ諸島は、大きな8つの島と130近くある小島や岩礁からなる。
これらの島々は太古から現在まで続く、壮大な火山活動から生まれた。ハワイ諸島の最北西にあるクレ環礁が、地球の奥深くにあるホットスポット(マグマ溜まり)から噴出した溶岩によって形成されたのは、約3000万年前だと考えられている。

ホットスポットの位置はほとんど変わらないが、ハワイ諸島の下にある太平洋プレート(地球の表面を覆う岩盤)は、1年に約8センチメートルずつ北西方向に移動していることから、海底火山の噴出のたびに、東側に新しい島が次々と生まれたことになる。

ハワイ諸島がほぼ一列に並んでいるのはこの火山活動によるもので、地質的にも「兄弟」島といえるだろう。
ハワイ6島の中ではカウアイ島が一番古く、約500万年前に生まれた。

現在も活発に火山活動が続いているビッグ・アイランドは約100万年前に生まれたと考えられている。

さらに、ビッグ・アイランドの東の海底には、すでに「ロイヒ」と呼ばれる海底火山が海面下969メートルまで隆起しており、数万年後は陸地として海面に現れる可能性もある。

ハワイはまさに「生きて」いる。地球の鼓動を地上で直接、体感することができる希有の場所である。



2月14日(土)07:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | 旅行業界情報 | 管理

火山と「星に導かれて旅する人々」が作った楽園

ハワイがアメリカ合衆国の50番目の州となってから、2009年は50年目の節目の年を迎える。

ハワイには、3000万年以上前から脈々と続く大自然、それに育まれた人類の歴史を感じられるスポットがあり、「州」となった50年の間にも刻々と変化しつづけ、魅力を増している。

先史時代の移住者たちは文字を持たず、口承伝説や絵、舞踊(フラ)などで習慣や文化を継承していた。

ハワイ各地に残されているペトログリフと呼ばれる線刻岩絵もその一つだ。
例えば、コハラ・コーストにあるワイコロア・ビーチ・リゾートの周辺には、雄大な溶岩原のあちこちに驚くほど多様でユニークな意匠、パワフルなメッセージが刻み込まれたペトログリフが点在している。

多様な絵の中に、亀などの動物、狩りをする人間の姿にまじって、大きな双胴船があり、船の周辺には星座と見られる絵も刻まれている。

スターナビゲーション(星座を基準にした航海術)で、壮大なスケールの旅をした先史時代の人々の思い出が刻まれているのだろう。
素朴な線画だが、見る人の心を強く揺さぶるメッセージが感じられる。



大きな8つの島と130近くある小島や岩礁からなるハワイ諸島が誕生したのは、約3000万年舞えと考えられている。
ハワイ諸島の最北西にあるクレ環礁が、地球の奥深くにあるホットスポット(マグマ溜まり)から噴出した溶岩によって形成されたのが、その始まりだ。
ハワイ6島の中ではカウアイ島が一番古く、約500万年前に生まれた。

現在も活発に火山活動が続いているビッグ・アイランド(ハワイ島)は約100万年前に生まれたと考えられている。

 真っ赤に燃える溶岩が静まって大地となり、そこに動植物が生育できるまで、何百万年もの年月がかかった。
ハワイ諸島に最初に人間が住み着くようになったのは、日本で聖徳太子が活躍したとされる時代の紀元500年から700年の間であったと推定される。

この人々は、南太平洋のマルケサス諸島からやって来たポリネシア人と考えられている。
マルケサス諸島からハワイまでは、およそ3500キロ。



太陽や星で位置を測り、風の波だけを頼って、海上を旅して来たのだ。

ハワイの神話に登場する、小柄ながら強靱な肉体と意思を誇った「メネフネ族」と呼ばれる人々が、この最初の移住者だったという説が有力だ。

さらに12世紀になると、4000キロにあるタヒチから多くの人々がやって来て、ハワイの各島に分散。
大規模な神殿や潅漑施設、養魚場まで作り、タロイモなどを中心とした農業の基盤を整えたという。



ハワイ諸島最大の島、ビッグ・アイランドは、世界で最も活発な火山活動が観測されている場所だ。
とりわけ島の南東端にあるキラウエア火山(標高1247メートル)は20世紀以降、50回近い噴火が記録されており、今もときおり海に向かって真っ赤な溶岩が流れ落ちる。
山域はハワイ火山国立公園に指定され、1987年にはユネスコの世界遺産にもなっている。
ちなみに、キラウエア火山のハレマウマウ火口には、ハワイの伝説の中で最も有名な火の女神ペレが住んでいると信じられている。
ペレは、出会ったすべての男性を魅了してしまうほどの美女でありながら、極めて身勝手で凶暴な性格でもあるという。
火山の心奪われるような美しさと、その強大で危険なパワーへの畏怖心が、そのまま「ペレ」として神格化されたと思わせる強いロマンを感じる神話だ。
また、の中央部にそびえ、世界で最も天体観測に適した場所とされる標高4205メートルのマウナケアも活火山だ。
日没と星の観察を組み合わせたツアーは、ハワイ観光の中でも最も人気のあるものの一つだろう。

 大自然の膨大な力を見せ付ける火山を、ハワイの人々が神の姿そのものとして崇拝し、大切にしてきたことは当然といえる。
火山の周辺にはしばしばヘイアウ(古代ハワイ人が作った聖域)が残されており、最近はハワイを「スピリチュアルなディスティネーション」としてとらえ、心の旅、癒しの旅を求めている人も増えてきた。
そうした人々に注目されている「パワースポット」の多くが、火山と深いつながりがある。

 例えば、マウイ島のハレアカラは3000メートル級の世界最大の休火山だ。
この火山のクレーター周辺をめぐるトレイルを歩けば、かつての火山活動の激しさとスケールの大きさを体感できる。
映画『2001年宇宙の旅』のロケ地として選ばれたのも、この地球とは思えない景色のためだろう。
ハレアカラとは「太陽の家」を意味する。
古代ハワイの伝説で活躍する半神半人のマウイが、一日を長くするためにこの山に太陽を閉じこめたのだといわれている。
この太陽を抱く山のパワーを最も感じられるのは、頂上から日の出を眺めるときだろう。



12世紀初頭にタヒチから人々がやって来た後、ハワイは600年近く外界との接触が途絶えていた。
他のポリネシア周辺から人が来なくなった理由は、歴史学でも定説がない。
1778年に英国のジェームス・クックに「発見」されるまで、ハワイはポリネシア文化を基礎にしながら、独自の文化を育んでいた。

 大自然の森羅万象に神がやどる信仰は、創造神「カネ」、収穫を司る「ロノ」、戦の神「クー」、そして海と闇の世界を司る神「カナロア」の四大神を中心に、複雑な構造を持つ伝説を生み出していった。
人々は神聖な場所や身近にヘイアウを築き、神々に祈りを捧げ、フラを踊って霊力の恩恵にあずかろうとした。ビッグ・アイランドのプウホヌア・オ・ホナウナウ国立公園のように、巨大なヘイアウの跡が残されている場所はハワイ各地にあり、今もパワースポットとして神聖視されている。
また、ホエールウォッチングや美しい灯台で人気のあるオアフ島のマカプウ岬には、へ移る前に、火の女神ペレが一休みした「椅子」といわれる岩があり、古代ハワイアンの信仰の場としても注目したい。

 古代ハワイ文化として注目したいもう一つのポイントは「サスティナビリティ」だろう。
人々は早期から、島々の自然が持続可能となる生活形態を築いてきた。
その維持ために、マナと呼ばれる神聖な力を畏怖し、カプ(禁忌)が細かく定められた。
例えば、ロコと呼ばれる一種の養魚場を作ったり、飲料水の確保に欠かすことができない渓流を保護するために上流部への立ち入りを禁止したり、王族が使う鳥の羽も、鳥を殺さないように一羽から数本ずつ採取したなど、エコロジー的な知恵に満ちた慣習が幾つもあった。自然の恵みを尊び、すべてのものを大地や海に返すことで、再び恵みを受けることができると信じていたのだ。1819年にカプは廃止されたが、ハワイの人々の心には、今も自然を大切にする思いが強く残っている。
「マナとエコ」は、ハワイで新しい関心をひくテーマのひとつになりそうだ。

~ハワイ・スペシャリスト~
ハワイ州誕生50周年記念特集



2月14日(土)07:13 | トラックバック(0) | コメント(2) | 旅行業界情報 | 管理


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