日本ブライト旅行社長のブログ
 
栃木県佐野市の旅行会社社長のひとり言です。
 


ハワイ州の誕生とジェット機時代

1959年3月12日、ホノルルの有力紙『ホノルル・スター・ブルテン』の第一面には、巨大な活字を使った「STATEHOOD!」(立州!)という言葉が躍り、50の星が散りばめられた星条旗が描かれた。

米国議会下院がハワイの「州」への昇格案を承認決議したのだ。
そして同年8月21日、ハワイは正式にアメリカ合衆国の第50番目の州となった。
ハワイ各地の教会の鐘が一斉に打ち鳴らされ、人々は家や職場を飛び出して街の公園や役所の前などに集まり、立州を喜びあったという。

州の誕生が人々の関心を寄せ、新たな「ハワイ観光」を促した。



ハワイアメリカに併合した1898年以降、州昇格への思いが強まり、1930年代後半には昇格運動が本格化した。1941年からの第二次世界大戦により、運動は中断を余儀なくされてしまうが、この大戦がハワイ観光に劇的な変化をもたらした。当時、年間3万人に伸びていた観光客の渡航は禁じられ、米国各地から数多くの兵士が駐留するようになり、やがて故郷に帰った兵士たちが語った「土産話」が、多くの一般のアメリカ人にハワイへの憧れをかき立てたことは想像に難くない。

開戦前はまだまだ「極めて贅沢な旅」で、観光客の主流は欧米の富裕層に限られていたが、大戦終結ととともにハワイは高級リゾートのみならず、大衆リゾートとしての扉を開くことになる。



メディアの発達も、観光地としての急成長と大衆化の追い風となった。
アメリカのラジオ番組『ハワイ・コール』は前回のハワイ特集で触れたが、日本では1948年、マドロス姿の岡晴夫が歌った『憧れのハワイ航路』が大ヒット。
まだ海外渡航も自由にはできない時代だったが、「希望果てない遙かな潮路」の彼方にあるハワイへの憧れは大きく広がっていたようだ。
この歌をもとに1950年に制作された同名の映画も、岡晴夫と美空ひばりの共演で多くの観客を喜ばせた。
もちろん、団塊世代のシニア層にとっても、幼少時代の郷愁を誘う思い出のひとつのであるだろう。

また、ハワイ立州と同じ1959年にはじまったアメリカの『ハワイアン・アイ』、1961年公開の映画『ブルーハワイ』は、アメリカはもちろん、日本を含めた世界各地に「夢の島ハワイ」のイメージを強く印象づけた。
人気絶頂だった主演のエルビス・プレスリーが、ハワイの観光会社の社員として映画に登場するのも象徴的だ。
プレスリー扮するチャド・ゲイツが観光客をカウアイ島へ案内するシーンもあり、オアフ島以外の観光化も進んでいたことがうかがえる。
映画では、オアフ島のハナウマ湾やカウアイ島のハナレイ湾など全編のほとんどがロケで撮影されたので、ハワイの自然の美しさ、ビーチの楽しさなどが“リアルに”人々に伝わっていった。
そして1968年にはホノルルのダウンタウンを舞台にした人気刑事ドラマ『Hawai’i Five-O』(ハワイ・ファイブ・オー)がスタート。
12年も続いたこのドラマはダイヤモンド・ヘッドやノースショア、マカプウ・ビーチやイオラニ宮殿などとともにしばしば観光客が登場し、ハワイ観光の成長が反映されていた。



ハワイ渡航に関わるインフラも整備された。
1947年にはユナイテッド航空(UA)が陸上機で初の定期便として米本土と結ぶハワイ線を就航し、ハワイ州誕生の年である1959年からはホノルル国際空港の新ターミナル建設が開始。
来るべきジェット機時代に対応するために造られたアメリカで初の空港で、いよいよジェット時代が幕を開ける。
一機で100以上の乗客を運び、航空料金も「一般人の手の届くレベル」に近づいて、同年の観光客数は25万人に膨張した。

1960年代から70年代初頭にかけてはアメリカの好景気も波及し、ハワイの人口増加にあわせ住宅建築、そして観光客を受け入れるホテルの建設が急ピッチで増加。
1964年にオープンしたザ・イリカイ・ホテルに代表されるような、客室数1000室を超える高層大型ホテルも次々と誕生した。
その一方、1泊8米ドル50セント程度から宿泊できる手軽なホテルも建ち、1週間程度の旅程の団体ツアーなら「ロサンゼルスからの往復航空券と宿泊込みで100米ドル以下」も登場。
一般大衆にもハワイは「実現可能な夢」になったのだ。
もちろん、長期滞在の贅沢な避寒客も多く、1960年に当時皇太子だった明仁殿下と美智子妃殿下が訪問されたのをはじめ、世界各国の首相や有名人たちも続々と訪れている。

そして1967年、ついに年間の観光客数が100万人の大台を超えた。



1960年代はハワイが「富裕層だけのリゾート」から、「すべてのアメリカ人の夢」へと変化した時代だ。
まず注目されたのは海とビーチ。
ハワイ初のオリンピック金メダリストであるデューク・カナハモクの活躍で人気となったサーフィン、大型の魚をねらうフィッシング、浜辺でのフラの実演など、海の魅力を体感するアクティビティはこの時代の人々の大きな憧れだった。
観光はワイキキ周辺が中心だったが、パールハーバーやパンチボウル国立戦没者墓地を旅程に入れる人も多かった。
軍役の体験者にとってハワイは特別の思いのある場所でもあったからだ。

もう一つ、大きな魅力となったのは火山やゴルフ。
1916年にアメリカ政府はビッグ・アイランド(ハワイ島)のマウナ・ロア火山、キラウエア火山、マウイ島のハレアカラ火山をまとめて国立公園に指定していたが、1961年にはハレアカラ火山を独立させて、ハレアカラ国立公園とし、園内整備や自然保護に力を入れるようになった。
また、ゴルフ場では60年代半ばから一般向けのゴルフ場の開発が本格化。
ハワイのベスト・ゴルフ場として取り上げられるカウアイ島のワイルア・ゴルフコースも1961年に9ホールを増築。
贅沢な遊びだったゴルフが一般の人々に普及しはじめたことにも、ハワイは大きな役割を担ったようだ。

また、「ショッピング天国」も忘れてはならない。パイナップルや蘭、コーヒー、アロハシャツなどばかりでなく、ファッションやインテリア小物、宝石など、ゆったりとした気分で買物ができるのもハワイ旅行の魅力になった。
その口火となったのは1959年にオープンしたアラモアナ・センター。
やがて世界一の売り場面積を誇る、巨大なショッピングモールに成長していく。

1962年にはハワイ州の経済開発企画担当庁などが主体となり、「ハワイ・ビジターズ・プログラム」が発足。
ハワイの主要な島々に観光客を誘致する動きが強まり、カラー写真をふんだんに使ったパンフレットやマーケティング活動などが、各島の飛行場の整備と並行する形で進められた。
1968年にはヒルトン・ハワイアン・ビレッジ、1969年には31階建て、客室数1852の超大型ホテル、シェラトン・ワイキキがオープンし、ハワイはいよいよ「ブーム」の時代を迎える。



2月14日(土)08:05 | トラックバック(0) | コメント(0) | 旅行業界情報 | 管理

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