日本ブライト旅行社長のブログ
 
栃木県佐野市の旅行会社社長のひとり言です。
 


2008年1月10日を表示

観光庁、定員103名の内示

国土交通省総合政策局観光政策課によりますと、観光庁の定員は103名と内示されたようです。

現行の総合政策局観光部門としては総勢79名であり、24名増員となる見込みです。

内部組織は、当初要求どおりの観光地域振興部は認められましたが、国際観光部の設置は認められなと決定したようです。
この結果、総務課と観光産業課、国際観光政策課、国際交流推進課の4課と観光地域振興部が観光庁長官の直属となり、観光地域振興部のもとに観光地域振興課と観光資源課が配置され予定です。

各部署の役割
総務課・・・現在の観光政策課、観光産業課が観光事業課を引き継ぐ。
国際観光政策課・・・ビジット・ジャパン・キャンペーンのインバウンド施策のほか、アウトバウンド、国際会議などの企画立案、ビザなどをはじめ各省との連携などを担当し、国際交流推進課はその具体的な事業を担当する。

観光地域振興部観光地域振興課・・・現在の観光地域振興課を引き継ぎ、観光資源課も現行を引き継ぐ。

なんだかまだ理解できませんが下記の組織図をご覧下さい。国際観光部・・・認められず






1月10日(木)18:52 | トラックバック(0) | コメント(0) | 旅行業界情報 | 管理

01月10日(木)訪問者

・栃木県小山市 ファイン小山 稲葉次長様
・福島県土湯温泉 山水荘 営業課長 小野塚正樹様

・栃木県足利市 有限会社東武トラベルシステム 売野社長
新年のあいさつにご来店
昨年は、電話での御相談などを伺う機会も何度かございましたが、今年は、新年早々に「ひよこバス(特定3種企画旅行)」が地元市役所とのコラボレーションで順調のようです。
 また、新たな分野で活躍をしていただきたいと思います。売野社長の若さなら旅行業のパラダイムの転換ができると思います。是非、新たな方向性を打ち出して下さい。

・栃木県栃木市 富士観光バス株式会社 営業中野様

・栃木県宇都宮市 トラベラー株式会社L 宇都宮営業所
  所長荻山様・営業吉原様
昨年、海外旅行の不振でお土産の受注も全国的に少なく燃油サーチャージの改定が段階的にあり、海外渡航者数のマイナス要因が売上を下げたとのお話です。

 私は、海外添乗の中で旅行会社でなく直接自己責任でお客様が手配をする段階になってきたのだと思えてきました。

安心な手配が可能なインターネットの普及です。
どれを安心と言うのか分かりませんが、直接国際航空券と現地ホテルの手配をして無事に帰って来た根拠のない自信がそうさせているのでしょう。

海外保険に入り、クレジットカードを持って出発!

旅行会社が把握していない直接手配の渡航者数が増えたのもお土産を購入しない原因に繋がっていると私は思います。観光庁が今年出来るのを機に考慮しないといけないと思います。商売だけでなく。

安心・安全な旅行の提供。
異国の地で渡航者が全て自分自身で身を守ることが可能ではないことだからです。

海外旅行商品や世界の土産販売の老舗が苦戦する海外お土産事情。良い年になって欲しいですね。



1月10日(木)18:20 | トラックバック(0) | コメント(1) | visitor | 管理

益子焼

 
故人間国宝 島岡達三氏の作品


益子焼(栃木県)は、19世紀の中頃、笠間焼(茨城県)の影響を受けて始まりました。

初期の益子焼は、藩の援助を受けて日用品を焼いており、そうして作られたものは江戸の台所で使われていました。

大正13年から作家活動を始めた浜田庄司は益子に住む陶工達に大きな影響を与えました。
そこから、現在、益子焼として親しまれている食卓用品や花を生ける器等が作られるようになりました。

益子の良質な陶土を使って、白化粧、刷毛目(はけめ)等の伝統的な技法で力強い作品が大量に作り出されています。



遠足で制作した益子焼が完成し、学校に届いた次男諒太(小4)の作品です。


伝統的な土地の素材である益子でとれる陶土と、釉薬(ゆうやく)等の技術が結び付いて生まれた、落ち着いた艶のある素朴な焼き物です。

ろくろ、型おこし、手ひねりといった方法で形を作り出します。
形が出来たところに、白い泥を筆の刷毛目を活かして塗る刷毛目という技法や、鉋(かんな)で削って凹凸を付ける飛び鉋という技法を使って、模様を付けます。

そして絵付けは、青色を出す呉須、黒から茶色の色味を出す鉄砂、銅等を使って行われます。

また、益子焼には多くの釉薬があります。
柿釉や黒釉、藁(ワラ)の灰、木の灰、糠灰等を使った糠白釉(ぬかじろゆう)等により、独特の味わいを出しています。

「民芸運動の中で」
この益子焼を一躍有名にしたのが、濱田庄司と彼が柳宗悦、河井寛次郎らと推進した民芸運動です。

益子焼の健やかな美しさにひかれて、大正13年(1924年)から益子に入り、作陶活動を始めた濱田庄司は、地元の工人たちに大きな影響を与え、今日のような食卓で使われる器や花器が多く焼かれるようになりました。



1月10日(木)10:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | 家族 | 管理


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