日本ブライト旅行社長のブログ
 
栃木県佐野市の旅行会社社長のひとり言です。
 


益子焼

 
故人間国宝 島岡達三氏の作品


益子焼(栃木県)は、19世紀の中頃、笠間焼(茨城県)の影響を受けて始まりました。

初期の益子焼は、藩の援助を受けて日用品を焼いており、そうして作られたものは江戸の台所で使われていました。

大正13年から作家活動を始めた浜田庄司は益子に住む陶工達に大きな影響を与えました。
そこから、現在、益子焼として親しまれている食卓用品や花を生ける器等が作られるようになりました。

益子の良質な陶土を使って、白化粧、刷毛目(はけめ)等の伝統的な技法で力強い作品が大量に作り出されています。



遠足で制作した益子焼が完成し、学校に届いた次男諒太(小4)の作品です。


伝統的な土地の素材である益子でとれる陶土と、釉薬(ゆうやく)等の技術が結び付いて生まれた、落ち着いた艶のある素朴な焼き物です。

ろくろ、型おこし、手ひねりといった方法で形を作り出します。
形が出来たところに、白い泥を筆の刷毛目を活かして塗る刷毛目という技法や、鉋(かんな)で削って凹凸を付ける飛び鉋という技法を使って、模様を付けます。

そして絵付けは、青色を出す呉須、黒から茶色の色味を出す鉄砂、銅等を使って行われます。

また、益子焼には多くの釉薬があります。
柿釉や黒釉、藁(ワラ)の灰、木の灰、糠灰等を使った糠白釉(ぬかじろゆう)等により、独特の味わいを出しています。

「民芸運動の中で」
この益子焼を一躍有名にしたのが、濱田庄司と彼が柳宗悦、河井寛次郎らと推進した民芸運動です。

益子焼の健やかな美しさにひかれて、大正13年(1924年)から益子に入り、作陶活動を始めた濱田庄司は、地元の工人たちに大きな影響を与え、今日のような食卓で使われる器や花器が多く焼かれるようになりました。



1月10日(木)10:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | 家族 | 管理

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