日本ブライト旅行社長のブログ
 
栃木県佐野市の旅行会社社長のひとり言です。
 


国破れて 山河在あり

国 破 山 河 在
城 春 草 木 深
感 時 花 濺 涙
恨 別 鳥 驚 心
烽 火 三 月 連
家 書 抵 萬 金
白 頭 掻 更 短
渾 欲 不 勝 簪

国破れて 山河在あり
     城春にして 草木深し
     時には感じて 花にも涙を濺ぎ
     別れを恨んでは 鳥にも心驚ろかす
     烽火三月に連なり
     家書萬金に抵たる
     白頭掻けば 更に短かく
     渾べて簪に 勝えざらんと欲す


くにやぶれて さんがあり
しろはるにして そうもくふかし
ときにかんじては はなにもなみだをそそぎ
わかれをうらんでは とりにもこころをおどろかす
ほうか さんげつにつらなり
かしょ ばんきんにあたる
はくとう かけばさらにみじかく
すべて しんにたへざらんとほっす



この詩は、杜甫46歳、安禄山の叛乱がおこってすぐあと、皇帝の朝廷とへだたり、疎開先の家族ともへだてられて、ただひとり、叛乱軍の陣営に拘禁されていた間の作であるという。
  「国破れて山河在り
   城春にして草木深し」
「国破れて」とは、国家の機構が解体して、狂人が出たらめにはさみを入れた紙ぎれのように、ぼろぼろになってしまったことをいう。敗戦の意ではない。破と敗とは、おなじくヤブレルと和訓するけれども、漢語の本来の意味はおなじでない。
 しかし山河大地は、そうした人間の不幸に超然として、そのままに存在する。「在」という字も、単なるアリの意味ではない。依然として、確固として、存在する、というほどの意味を「在」の一字がもっている。そうして「城は春にして草木深し」。城郭にかこまれた町町に、春は今年も、めぐり来た。人間はその秩序を失っても、自然はあくまでもその秩序を失わない。人影もない城壁のほとり、草木は青青と、めぐみ、しげる。

第二の対句、
「時に感じて花は涙を濺ぎ
   別れを恨んで鳥は心を驚かす」
「時」とは、時世のありさまをいう。時世のありさまに悲しみを感じて、花見心をいためるのであろうか、涙をこぼすように、はらはらと散る。また人人がちりぢりになってしまった不安な空気の中では、鳥のなき声も何となく不安げである。
 かく涙を濺ぐのは花であり、心を驚かすのは鳥であるとして、吉川はこの聯を読みたい。今の中国語にも「驚心吊膽」という言葉があり、それはおっかなびっくりの意である。もっとも、涙を濺ぎ心を驚かすのは、杜甫自身であるとして、「時に感じては花にも涙を濺ぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」と読む説もある。

第三の対句、
「烽火は三月に連なり
   家書は万金に抵る」
三月は陰暦の三月、陽暦でいえば四月、いつもならば一ばんたのしい季節である。ところが安禄山の叛乱によってあちこちに起る烽(のろし)の火は、この最も美しい月になっても、まだやまない。この混乱の中にあって、疎開地において来たままの家族は、今どうしているであろうか。食糧はどうして手に入れているであろうか。いやそもそも生きているであろうか。ぷっつりとたえはてた消息。もし家書、家からの消息が得られるならば、おのれはそれを万金に相当するものとして、貴重しよう。「家書抵万金」。dii という重い発音をもつ抵の字は、相当するという意味であるが、「万金に抵る」と率直にいいはなしたところが、なかなかに悲痛である。なお「烽火連三月」の三月を、三ヶ月間と解くのは、正しくないであろう。似た用語例として、初唐の詩人王勃の仲春郊外と題する詩に「物色連三月、風光繞四隣」と見え、それは明かに旧暦三月の意であるからである。

最後の聯、
「白頭は掻くごとに更に短く
渾(す)べて簪(かざし)に勝(た)えざらんと欲す」
46歳の杜甫は、はや白髪であったらしい。憂いにまかせて掻く白髪の、掻けば掻くほど、ぬけまさり、簪をさすにもたえかねそうだ。当時は、男子も結髪し、仕官の人は、冠の外からヘアピンを、まげの中につきさし、冠を固定させていた。それが簪(さん)である。「渾べて簪に勝えざらんと欲す」。渾の字は、すべてというか、なべてというか、まるっきり、まったくもって、の意であって、デスパレートな気持ちをよく現わしている。
 家族に対するこまやかな愛情、それは杜甫の詩の一特徴である。晩年の放浪は、ずっと妻子をかかえての旅であったが、家長としてのこまかい思いやりが、いつもその詩ににじんでいる。いわんやこの詩の作られた時には、家族とはなればなれになったままであった。国への愁いは、家への愁いと相重なって、詩は悲痛ならざるを得ぬ。
しかし、やがて杜甫は、賊軍の監禁から脱出する。そうして妻子との再会を、やがてとげる。ひとり妻子との再会をとげるばかりでなく、変装して賊軍の陣営を脱出し、新帝の行在所にはせ参じたという冒険的な行為をめでられて、朝官としての地位も安定する。しかしそれもしばらくのことで、天成の不平家は、官吏としての地位をすぐすてる。そうして家族をかかえつつ、食糧をもとめて、流浪の旅にのぼる。流浪は、甘粛、四川、湖北、湖南と、西南中国の各地を、12年にわたって、その死に至るまでつづけられる。



杜 甫(とほ、712年(先天元年) - 770年(大暦5年))は、中国盛唐の詩人。字は子美。杜少陵、杜工部とも呼ばれる。律詩の表現を大成させた。詩人としての最高位の呼称である『詩聖』と後世の人は呼んでおり、李白と並び称される。


2月3日(水)23:09 | トラックバック(1) | コメント(0) | こころに残る言葉 | 管理

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