日本ブライト旅行社長のブログ
 
栃木県佐野市の旅行会社社長のひとり言です。
 


訃報 株式会社プロレスリング・ノア 代表取締役社長 三沢光晴さん 

プロレスリング・ノアの社長でプロレスラーの三沢光晴(みさわ・みつはる)さんが13日、試合中の事故で広島市内の病院に搬送され、同日午後10時10分、死亡が確認された。46歳。

三沢さんは広島グリーンアリーナ小アリーナで行われた広島大会のGHCタッグ選手権の試合中に相手選手の岩石落とし(バックドロップ)を受けて頭部を強打。

心肺停止状態に陥った。

三沢さんはそのまま動かなくなり、レフェリーが異変に気付き試合を止めた。

その後は参戦していた佐々木健介や高山善廣ら選手たちがリングに駆けつけて「社長」と声を掛けたが、三沢さんは応じなかった。すでに呼吸をしておらず、心肺停止の可能性が高いことから観戦していた医師やトレーナーらが人工呼吸や心臓マッサージを行ったが、反応はなかった。

さらに、しばらくして駆けつけた救急隊員が自動体外式除細動器(AED)で蘇生(そせい)を試みたが、心肺停止のまま広島市内の病院に搬送された。

搬送先の病院では集中治療室で救命処置を受けたものの、帰らぬ人となった。


 三沢さんは栃木・足利工大付高でレスリング部に所属し、81年に全日本プロレスへ入門。84年にマスクマンのタイガーマスク(2代目)となり、人気を博した。90年からはマスクを脱ぎ、本名で活動。ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田両選手(ともに故人)に次ぐエースとして活躍した。00年に全日本を退団してプロレスリング・ノアを設立し、社長を兼務。受け身のうまさには定評のあるレスラーだった。



男子プロレスで死亡、00年に初の事例

日本にプロレス興行が根付いた1953年以降、国内での試合中の事故が原因で死亡したのは、97年にJWP女子プロレスのプラム麻里子さん(当時29歳)が最初。相手の技を受け、頭部を強打したものだった。

男子では00年に、栃木・足利工大付高レスリング部で三沢さんの後輩となる新日本プロレスの福田雅一さん(当時27歳)が同様に頭部を強く打って死亡したのが、初の事例となった。

プロレス団体「ノア」の社長を務める三沢光晴さんが2009年6月13日午後8時45分過ぎに亡くなった。
亡くなるきっかけは、「試合中に相手技のバックドロップで頭部を強打した」ことによる。
観客の中にいた医師がAEDで蘇生を試みたが、意識は戻らなかった。

初代タイガーマスクの佐山サトルさんから、三沢さんが「2代目タイガーマスク」とその立場を引き継がれ、活躍していた頃の印象は強烈である。

ニュースなどの報道では、
「試合中に何度も首を振って体調が悪そうだった」
(観戦していた観客の談話)だというし、
「2009年5月の日本武道館大会では若手に試合の主導権を握らせていた」というから、「長年の疲労」や「年齢による体力の衰え」、「主催する「ノア」の経営」などで心身ともに万全の状態ではなかったのかもしれない。

経営する団体「ノア」は、「地上波打ち切り」もあり、経営は前途多難だったと想像される。
毎回プロレスの試合は「危険と隣り合わせの仕事」でもある。

看板レスラーで、ノアを背負う三沢さんに「経営に徹すること」はできなく、中小零細企業で「経営者」=「4番打者」であると、どうしてもそうなってしまう。
結果「リスク」はある。

三沢さんの御冥福をお祈りしたします。



6月14日(日)18:20 | トラックバック(0) | コメント(0) | スポーツ | 管理

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