日本ブライト旅行社長のブログ
 
栃木県佐野市の旅行会社社長のひとり言です。
 


お客様だけを考えて

 自ら配ぜんや接客に駆け回る松田紀子さん。「お客様にプラスかマイナスか」を意識しているといっていた。
 「これからの経営の判断基準は、お客様にプラスかマイナスかだけにします。方針に従えない従業員は辞めてもらいます」。

 足銀破たんから半月余りたった04年十二月十八日。鬼怒川ロイヤルホテルの松田紀子社長は、五十人の従業員を二階会議室に呼び集めた。その前で、長男で専務の潔さんが、新しい経営方針を説明した。

 数日後、古手の従業員数人が辞表持ってきた。社長は慰留しなかった。「お客様に喜んでもらえるサービスができないのなら、仕方がない」。心の中で、自分にそう言い聞かせたそうだ。

 あの日も、師走の書き入れ時直前だった。「足利銀 破たん処理」。新聞に躍る見出しを目にして、松田社長は、夫からホテル経営を引き継いだ十九年前を思い出して語った。

 長崎県・五島列島で生まれた松田社長が、鬼怒川温泉でホテルを営む二十二歳年上の正一さんと知り合ったのは、中央大法学部で弁護士を目指していたころ、司法書士だった父親は、一人娘が鬼怒川に嫁ぐことに猛反対したが、卒業後、押し切って結婚した。正一さんには、「お前は表に出なくていいから」と言われ、子育てと主婦業に専念していたそうです。

 その夫が病に倒れ、一九八四年十一月二十七日、他界した。「ホテルを頼む」――。それが最期の言葉だった。

 三十七歳だった松田社長は、百二十五の客室を抱える、鬼怒川温泉有数の大ホテルを率いる立場になった。

 バブル経済の追い風を受け、経営は順調だった。週末となれば、黙っていても、客室は団体客で満杯になった。松田社長は女将(おかみ)として、三十一ある宴会場を、和服姿で走り回った。草履の鼻緒はすぐに伸び、着物はすそがすり切れて、何度も仕立て直しが必要になるほどだったそうです。

 だが、九〇年代初めから、宿泊客が徐々に減り始めた。怖い者知らずだった松田社長は「建物をきれいにすれば、お客さんは必ず戻る」と考え、賭けに打って出た。ホテルをいったん閉めたうえでの全館改装である。

 古くなったダクトや配管をすべて更新した。客室の壁や天井も一新した。だが、団体客を見込み、五百三十畳敷きの大広間は残した。計画は、以前から取引があった足銀が後押ししてくれた。約七億円の費用は、もちろん足銀から借りた。

 四か月にわたる大工事の末、九五年七月に再オープンした。だが、客足は一向に戻らなかった。旅行スタイルが、団体から家族・個人へと変わっていた。経営低迷が続き、借金は重くのしかかっていたが、足銀は親身に支えてくれた。その足銀が破たんした。

 「苦しい時に助けてくれた銀行に、これから恩返しをと思っていたのに……」

 松田社長は、潔さんと話し合った。「温かい食事を温かいままに出す、そんなささやかなサービスもこれまではできていなかったのではないか」「生き残るには、従業員の意識改革が、どうしても必要なのではないか」――。反省は尽きなかった。

 「二人で、足銀破たんを前向きにとらえようと話しました。お客様のことだけを考えていこうと」

 この冬、週末の夕食時、先頭に立って配ぜんに走り回る松田社長と潔さんの姿があった。「従業員は減っても、サービスは充実しました。それには胸を張れます。」

 夫が築いたホテルを残したい――。足銀破たんをきっかけに、松田社長は甘えを捨て、ホテル経営者として第二のステップを踏み出したと2年前に語った。

 そして、女将のふるさと五島列島の味プラン。露天風呂付の部屋。家族連れを意識した夏休みプランとアイディアを次々と出してきた。
 
 しかし、鬼怒川ロイヤルホテルは、2006年7月13日付で、株式会社スタディーに売却されました。

 私は、約5年前に会社がある隣の市から通う営業のTさんが2週間に一度、営業に来られていたので送客をさせていただいていました。人懐こい方でよく顔を出して頂いてので安心してお客様にご紹介をしていたのですが、退職をされてしまったので少し縁遠くなってしまいました。

お世話になった宿だけに残念です。
やはりひとづくりかな?



7月25日(火)22:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | 旅行業界情報 | 管理

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